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風土と歴史にふれる旅
隆盛を極めた五軒家((歴史巡り) −戦国時代末期〜江戸時代にかけて隆盛を極める−
日間浦(ひまうら)とは現在の久美浜湾のことで、その昔は松江(しょうこう)ともいわれていました。
長さ7キロにもおよぶ白砂青松の砂浜は「日間の松原」と呼ばれています。
その悠久の地にかつて「五軒家」といわれる廻船業・両替商・酒造業を営んでいた豪商がありました。
今は、夏は海水浴、冬はカニ・カキで賑わう「小天橋」。その昔、こんな隆盛を極めた歴史がありました。


このページのINDEX
ルートガイド
歴史ガイド
五軒家について
五軒家が栄えたのは?
ぎょ柳について
御城米廻送経路
五軒家の衰退
小西家2代目小西伯煕について
天明の飢饉
資料1 「丹後久美浜・湊五軒家」より
資料2 五軒家の名残り

ルートガイ
1(徒歩3分) 2(徒歩0分) 3(徒歩5分)
蛭子神社 宝泉寺 絵看板
4(徒歩20分・階段あり) 5(徒歩0分) 6(徒歩1分)
大石塔 広峯神社 千石船
7(車5分) 8(徒歩15分) 9
展望台 旭港(もやい岩) 風蘭の館
【五軒家について】
湊の五軒家は金融業両替商、晩年には酒屋酒造家でした。小西家が一番古く、小西家は本座屋(ほんざや)、分家に新シ家(あたらしや)、下屋(しもや)とあり、ほかに木下(きした)、五宝(ごぼう)家がありました。

いずれも間口が20間から30件奥行きが一町ありました。本宅、離れ座敷、隠居、土蔵、納屋、門屋など30棟の建物が建ち並んでいたといいます。

小西家は一番早くから湊にありました。祖先は、小西隠岐の守盛信。宮津の見衆参におつかえになっていました。一色家の家来で、勇猛果敢な豪傑でした。一色家が滅び、一色、松井佐渡守に仕えました。慶長5年攻め来る石田勢を防ぎきれず、武士をやめて民間人になったといわれています。

【五軒家が栄えたのは?】
家康当時の自由貿易政策に乗じて、湊を本拠地にして満州、朝鮮に出航し、多大な利益を得ました。ぎょ柳(ぎょりゅう)*という木がありますが、当時中国との交易でもって隆盛を極めたものの名残りといわれています。その後鎖国になり、当然国内の交易に転じ、奥州の若松藩に塩を送り、塩を用立てるため塩田を瀬戸内、三田尻に作ったりしました。直江津などにお金の融通もしていました。

ぎょ柳(ぎょりゅう科)

中国の原産の落葉低木で庭木にもされる。
よく枝分かれして立上がり、高いものは6m程度になる。青緑色の細い枝を多数出し、一部は下垂する。葉は白緑色で小さく、針状で技全体を包む。

花は2回咲き、一回めは五月頃に前年枝に淡紅色の小さな花が咲き、二回目は当年技に9月ころ、5月以上とも思えるような美しい花が多数集まって咲きます。

久美浜では「江戸時代に海外とも商いをした五軒家が中国から持ち帰った。」と伝えられています。

港の護岸工事で風景はすっかり変わりましたが、古くから湊宮や大向地区では庭木にされたり、塩分やアルカリに非常に強くて根は梅水に、枝葉も潮風に耐えられますので海岸に植えられ、この木に船が繋留されていました。


五軒家の隆盛期は江戸時代前期で、日本海沿岸を舞台に活躍し、湊宮には船見番所か置かれ、廻船や御城米船の根拠地でした。
廻船業者は、主として沿岸貿易に従事し、主として米の運送をやっていました。最盛期の五軒家がどれくらい廻船を持っていたかは明らかではありませんが、湊宮(みなとみや)明細帳(1746)には850石、14人乗りをはじめとして19艘の廻船が湊宮にあったとあります。

天領の御城米は、各村の郷倉(ごうぐら)から久美浜、川崎、長良(ながら)の倉に運ばれ、役人の検査を受けて「艀下(はしけ)」で湊宮の西に位置する旭港の干石船まで運ばれました。この港は、急な崖を背にした入り江で当時の帆掛け船である廻船の出入りに部合のよい風が吹くことから港となりました。(御城米廻送経路の図)

干石船の模型が、蛭子(ひるこ)神社(湊宮)や広峰(ひろみね)神社(大向(おおむかい))に奉納されており、当時を偲ばせてくれます。

久美浜町湊地区は、「水戸」といわれていました。「良い港」ということですが、大きな船が入りませんでした。そこで、港を朝日にしました。

「朝日」と網野町浜詰に「夕日が浦」がありますが、その間に位置する景勝地であるから「日間の浦」といったといわれています。「浦」というのは入り江のことである。
朝日は風向きが良く、良い風が吹くと、北海道までうまくいけるようでした。

朝日港には、その名残りとして千石船がつながれている岩があります。「もやい岩」といい、2つほど残っています。

なぜ五軒家が栄えたのか?もともと秀吉から家康の自由貿易時代、ひとつはこれが幸いしたし、競争相手がありませんでした。江戸の前期から沿岸貿易が盛んになり、いち早く外国と交易ができた、地の利があったといわれています。外国から得た珍品を高く売りつけることができた。その当時は、相場がなかったので言い値で取引できました。

五軒家のもとに、子方があり、すべて五軒家のおかげで湊宮の村民の生活は成り立っていた。

【五軒家の衰退】
小西家の分家下屋では、幕末期の暴風雨のため大阪で3隻の舟を沈めたときから、衰運に向かったといわれています。

江戸末期になって、幕藩体制は根底から動揺していました。近隣の各藩は五軒家から金を借りたが、結局知らぬ存ぜぬで踏み倒してしまった。

慶応3年(1867)正月、小西興一右エ門は、浅茂川 山中平六に300石積みの舟を代銀51貫660匁で売っています。このようにわずかに残った廻船も維新の激動期になくなっていたものと想像されます。

明治維新政府は一時の融通のため、その直轄地の富豪に紙幣の発行権を与えました。五軒家はこれをもって一時の苦境を脱しようと「五軒家札」を多数発行しました。それは京都においても相当に通用するものであったといわれています。しかし、これはもともと不換紙幣でしたから、明治5年の禁止によって現金と引き換えるため、多くの家財を失い、没落を早めてしまたといわれています。

【小西家2代目小西伯煕について】
五軒家の中でも小西家下屋の2代目伯煕(ハッキ)氏が最も有名です。

伯熙(1748〜1819)は、内湾に向かって聚景楼(しゅうけいろう)という楼閣を築いて文人墨客を招き詩酒風流の会を催したという。自らも「松江近体詩」(しょうこうきんたいし)という詩集を寛政7年(1795)に発刊しました。また、子方の子供を集めて読み書きなども教えたといわれています。

「日間浦十二景」は天橋立が天下にその名を知られているのに、日間の浦(久美浜湾)はその蔭に隠れて知られていないことを遺憾とし、この楼より一望できる日間の浦の勝景十二を選び交流のあった当時一流と目される学者、詩人、高僧に詩を求めたもので、「松江近体詩」に収められている。

【天明の飢饅】
江戸時代の三大飢饉の一つといわれる天明の飢饅は、天明二年(1782)から天明七年まで続き、大風雨、洪水に見舞われ、凶作が米価の暴騰を招きました。このため語り尽くし難き困窮となり、餓死者が続出しました。
群霊曝骨墓

この惨状を不憫に思った湊宮(みなとみや)の五軒の大廻船業者(五軒家)が、倉から米を出して粥を振る舞った。それを聞いて人々は、一杯の粥を得ようと、杖をつき、最後の力をふりしぼって湊宮に向かった。

小天橋の長い松の道は、郡内外から集まる人々で一本の綱のようになった。しかしその途中で力尽きて倒れる者数知れぬ有様だったといいます。その後、亡くなった人々を供養する群霊曝骨墓(ぐんれいばくこつぼ)、大石塔(おおぜきとう)が建てられ、以来、今日まで供養されています。

江戸期に「振る舞い粥」が記されており、それが今日まで引き継がれてきたと思われる。茶粥が食べられている所は、湊宮の近い地域だけのようである。今でも老人会の集まりの時などごく一部ではあるが食べられています。

【資料】1「丹後久美浜・湊五軒家」より 著者 寺村龍太郎氏
寺村龍太郎氏は大正14年から昭和5年くらいまでに久美浜小学校にお勤めでした。昭和7年に本ができましたが、その中で、最初に次のように書いおられます。
緒 言
 雪の深い北丹熊野郡の冬は、交通の便が発達している現在でさえ、各町村間の往還が途絶されるのに、封建時代の昔では途絶えがちなのが普通であった。そうした当時に於いて「どんな大雪が降っても湊への道があかない時はない」といわれて、実際、節季前の濱中辺の松原は陸続(リクゾク)として、人の列が作られていた。

今は京都府の北海道とへき地扱いをされ、熊野郡の貧弱村とけなされ、僅かに小天橋海水浴場として都人士に紹介して、人を招き寄せようと苦心している湊村と比較して、余りにも異なった昔語りに奇異の眼を注がずにはいられない。

 白砂を盛った長い洲の上に立っている村、ありあまる田畑を持っているではなし、漁業とてもそれ程熱心でもない此の土地が、寒い冬にどうして人を惹きつけたのか、金持ちがいたからである。否、江戸時代にはこうした土地にも富豪を作らすだけの環境を持っていたのである。

 実に江戸時代三百年を通じて、此の土地は此の界隈切っての金融の中心地であり、財界一方の立者の居住地であったのである。湊五軒家、それが立者の総構であって、それは又、京、大阪はおろか、日本海岸の各地に響きわたっていたのである。

【資料】2五軒家の名残り  資料提供:冨澤趣蒐館
五軒家のその昔の栄華を彷彿させるものに一文銭があります。
久美浜町に、特に全国各地のコインが五軒家によって持ち帰られており、今でも残っています。
函館銭 松本銭
水戸銭 佐渡銭
岡山銭
佐渡銭 仙台銭


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