■京都・丹後・久美浜 悠久の歴史と文化を持つふるさと熊野を散策してみる −MAP−
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函石浜→(車15分)→(車5分)→熊野神社→(車8分)→湯舟坂2号墳→(車5分)→三嶋田神社→(車3分)→矢田神社→(車5分)→
神谷太刀の宮(参考館=久美浜県玄関棟)
(1)古代の歴史(丹後王国)を歩く −MAPへ−
?悠久の歴史をもつ久美浜。なかでも、久美浜町は、大和朝廷との深いつながりがありました。
ふるくから、大陸との交易があったことから、丹後王国の存在があったともいわれています。
紀元前 ? 函石浜遺跡(箱石) 中国・周の時代の刀銭(紀元前5〜6世紀)、王莽(おうもう)の貸銭(紀元14年)が発見され、古くから大陸との交流があったといわれています。
5〜6世紀 ? 湯舟坂2号墳
(須田)
大和朝廷にとって政治的に重要視された地域(日本海沿岸交易)であり、但馬と丹後を結ぶ陸路の中継地点となった地域。川上・須田にあり、当時の豪族の墳墓。
?江戸時代 タイムスリップ (須田) ■大石大三郎…大石蔵之助の3男。浅野家断絶の後、妻子を守るため犬石内蔵助は、妻りくと離縁。妻のりくは豊岡の実家石束家へ帰る。

その時、りくの腹には内蔵助の子が宿っており、その子が三男大三郎だった。不幸な星の元に生まれた大三郎は、生後五ヶ月あまり、りくのもとで育てられていたが、その後、熊野郡須田村の眼医者林文左衛門のもとに養子として出されました。
5〜6世紀 ・丹波道主命
(たにわのみちぬしのみこと)







大和朝廷より丹後平定を命じられ、丹後に入る。当時豪族であった、川上の摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)を娶り、比婆須須売命(日葉酢姫=後に后となる)真砥野比売・弟比売・朝廷別王(みかどわけのきみ)を生む。


四道将軍… 『日本書紀』には崇神天皇の時に、いわゆる四道将軍を派遣した記述がある。
これは崇神天皇が天皇の教えに従わない者が居るので、四方に将軍を派遣することとし、北陸道に大彦命、東海道に、たけぬかわわけの命、山陽道に吉備津彦命、山陰道に丹波道主命の四将軍を遣わしたと言われている。
神谷神社
(新町)
丹波道主命は、丹後平定に際し、丹後と但馬の国境である神谷の里、明神谷に、八千矛命、天神玉命、天種子命三座の神々を出雲の国より迎え、当時、強力な文化を有する出雲の人々の歓心を得、前途の平安を祈願し、大和政権に従わせるよう社を創建。
・太刀の宮
(新町)
丹波道主命の死後、その恩徳を慕い久美谷川清流にそった久美浜小谷の清地に社殿を造営し、常に、はい帯していた神剣「国見剣」を神の御魂として明神谷の出雲の三座の神々と合わせ祀った。
人々の信仰篤く「神谷太刀宮大明神」と称え仰ぎ祀られている。
また命の御剱「国見剣」から起こって「国見」が「久美」と訛り、久美浜の地名となったと言われている。古代丹後探求の鍵を握る社として近畿一円を見ても、丹波道主命を主祭神として鏡座する社は外になく、神谷神社が主祭神として丹波道主命をお祭りしている全国唯一の社である。
・大明神岬 久美浜湾の西部に突き出した大明神岬には、11の古墳があり、その中に、丹波道主命の墳墓があるといわれている。
・川上の摩須郎女(かわかみのますのいらつめ) ・式内熊野神社(甲山) 川上の摩須は、娘日葉酢媛が皇后にとりたてられ、また真砥野媛も妃となった。孫娘が皇后になったことを喜び、甲山のかぶと山に(権現山)に宝殿をたて、伊弉冊尊(いざなみのみこと)を祀った。
・海士部の直
(あまべのあたえ)
・矢田神社
(海士)
航海術にたけていたので、大和朝廷は国造(くにのみやつこ)を任じ、「直」の姓を与え、自己の支配機構の中に組み入れて行きました。海部は、各地にその勢力を伸ばしてゆくが但馬海岸から若狭に至る海部族を支配した海部直は、その根拠地を熊野郡の地に置きました。後に、須田地区の地域政権に主導権を奪われてしまいます。

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