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丹後湯舟坂二号墳出土品(たんごゆふねざかにごうふんしゅつどひん)
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住所:久美浜町須田
本古墳の石室内から出土した遺物は、用途別に分類すると武器・馬具・金具・銅鋺・装身具・土器などに大別され、その総点数は約470点余りに達する。これらの質量ともに豊富な遺物は、古墳時代後期の首長墓系古墳に伴う副葬品の全容を窺いうる貴重な資料となるものといえる。

環頭大刀は、いわゆる双竜式環頭大刀の範ちゅうに含まれるものであるが、現存する唯一の例とみられる2対の竜頭を表現した柄頭の特異な意匠に加えて、装具全体に関しても極めて良好な遺存状態を保っている。わが国出土の装飾付大刀の中でも稀有の優品ということができる。圭頭大刀は、出土位置からみて、環頭大刀に供伴するとともに初期の埋葬に伴うものと考えられる資料である。他に装飾付大刀として、銀象嵌を施した円頭大刀1点があるが、出土位置からみて6世紀末から7世紀前半にかけての追葬に伴うものと推測される。

馬具は、全体として4組分出土している。全国的にみても類例の数少ない、イモガイを挿入した飾金具など、雲珠・辻金具・杏葉を欠くものの貴重な馬具資料を得られた。

鉄釘については、数量的に比較的まとまった資料を得ることができ、本古墳への追葬時に使用され鉄釘使用木棺の一端を窺い知ることができた。検討の結果、厚さ2c皿を越えない極めて薄く仕上げられた板材によって組み立てられた繊細な感の強い木棺2相の存在を推定したが、鉄釘に残る木質の観察結果のみから類推したものであるため、今後に多くの検討課題を残しているといえる。

銅鏡は、府下では今回初めて出土した資料である。近くでは、兵庫県和田山町大谷2号墳から出土した高脚付鈍が知られている。これら古墳出土の銅鋺こついて、毛利光俊彦氏は「本来仏器として舶載もしくは生産されたものが古墳に副葬されたと考えて誤りないであろう」とし、また銅鉱出土古墳の分布状況から「関東地方に密であるのに対し、西国では稀薄で、畿内では奈良の2例を数えるにすぎない」と指摘している。

このような分布状況のしめす意味について氏は、「畿内では既述したように飛鳥時代に本格的な諸寺院が建立され、他地方に先がけて仏教文化が開化しており、そこには銅鏡などの仏器が相当数蔵されていた」と説き、地方の古墳出土の銅鋺に関して「畿内政権による地方豪族把握の手段として利用された(中略)そしてこうした動向の前提として各地域に白瓜時代寺院が成立するのであろう」と緒論づけている。ただし、本来仏器として輸入もしくは生産された銅鏡であっても、それが地方有力豪族層に配布され、そして伝世されることなく古墳に埋納される時点においては、他の副葬品と同じ意味あいを持って献納された可能性が考えられる。ところが本古墳の場合、仏器的要素を多分にそなえた須恵器長頭瓶2点を伴出しており、上記の毛利光氏の見解を積極的に裏づける一つの傍証となるものと考えられる。この須恵器長縣頸瓶は、いうまでもなく銅水瓶をモデルとして素材を違えて(ほうせい)されたものである。本村豪章氏はさきの銅鋺と同様の意味をもつものと考え、「量産されていないこと、その後の日本での展開をみると仏具として受容されていること、(中略)畿内豪族の申にあって大陸文化一時に仏教文化にうらづけられた新文化の受容に積極的であった勢力の要請のもとに彼等の勢力圏内で作製されたものではなかろうか」と述べている。以上みてきたように、本古墳被葬者集団は、6世紀末から7世紀前半代にかけて、当地方への仏教文化の導入に先駆的役割りを果たしていたことが明らかとなった。ただ現在までのところ、丹後地方では白鳳時代創建になる寺院跡は確認されていない。
装身具には、玉類と金環とがある。玉類は、管玉1点と漆塗上玉20点前後があるのみで、玉の種類・数量ともに極めて乏しいのが本古墳の一つの特徴である。金環は9点出土していることから、埋葬に当たって1人1対装着したと仮定した場合、5人の埋葬者数を推定復元する」ことが可能となる。ただし、対をなす2点がかけ離れた地区から見いだされたり、片方が散逸してしまっているものも含まれているので、現時点では、5人以上の埋葬者数を推定復元するにとどめざるをえないのが実状である。
須恵器は210点出土している。そのほとんどが完形品もしくは完形近く復元できたもので占められており、1基の横穴式石室内出土の須恵器資料としては、質量ともにわが国有数の豊富さを誇っているといえよう。これら多数の須恵器の胎土・焼成・色調などにみられる諸特徴を観察し、討議した結果、14類に分類しうるとの結論に達している。さらに、出土位置ならびに型式学的方法により、各器形に関する編年的考察を試みた。その結果、上記の胎土分類案によって14群に細分された土器群は、器形・出土位置・年代などの点においてかなり限定された小グループを形成していることが判明している。この点に関しては、器形ごとさらには追葬のたびごとに異なった生産地から須恵器が供給された可能性も考えられるが、いっぽう同一の生産地における器形・年代その他による差異とみられるものが含まれている可能性も高い。このことを究明するため、丹後・但馬両地方の古墳出土須恵器ならびに但馬地方の窯跡出土須恵器の一部を調査する機会を得た力・、確証は得られなかった。さらに一部畿内地方からの搬入品を含んでいる可能性も考えられる。このように、本古墳出土の須恵器の生産と供給の実態ついては、まったくといってよい程解明されていない。自然科学的方法をも含めた、今後の調査・研究によって究明すべき、重要課題の一つであるといえる。
環頭太刀柄頭 金環と三輪状金具 奥壁左隅部の出土品
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函石浜遺物包含地(はこいしはまいせきほうがんち)
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住所:久美浜町箱石
函石浜遺跡の状態は、大正9年刊行の「京都府史跡勝地調査報告ー第2冊」に詳しく報告されている。
この遺跡の特色の第1は、東西1キロ、面積25ヘクタールの遺跡を8区域に分けられ、区域ごとに出土遺物の差異が認められることである。第2は、縄文時代から、弥生時代、古墳時代、平安・室町時代に至るまでの遺物が出土していることである。
@新開場 石鏃多く出土する。
A白石 石鏃・銅銭を発見。縄文式の甕の破片一個を発見。
B製造場 石鏃・石劔・勾玉・管玉やその未完成品の小玉などが出土した。これら玉類の材料である硬玉(馬璃(めのう)・翡翠・碧玉など)の破片が、石器の材料である燧石(ひうちいし)の打欠き破片多数散在する中に発見されたので、石器製造所であろうと推定された。
銅鏃はこの付近から最も多量に出土し、小量の鉄片も出ている。土器はやや厚手の弥生式で、西日本各地の出土品の形式と一致し、紋様がつけられている。無紋のやや薄手の砂の混入する赤色の土器も出ている。

特記すべきは、ここから明治三十六年に「王莽の貨泉」二枚が発見されていることである。なお「函石」の名の起こりという扁平な岩片が多数出たという。
C骨山 丘全体に無数の人骨が散乱していたという。中古の五輪塔も出ていて、旧墓地と推測されている。
D人形岡 人形のようなものが並べられていたという。
E貝塚 幅20メートル、長さ150メートルにわたって広がる。浅い層に蛤・蜆(しじみ)・牡蠣など数種の貝殻が散布し、弥生式土器片・須恵器片が混じり、人骨も出ている。完全な弥生式の鉢、壷や錘石が発見され、中央の溝地からは唐・宋・明の古銭が出土している。
F鉄山 遺跡の西南隅にあって、全面に弥生式土器片・須恵器片が散在する。勾玉・鉄鏃・鉄滓・木炭なども散乱しており、ときに銅鏃も出ている。鉄片特に多く鉄山という。
ここの弥生式土器は薄手精巧で、焼き方にも他区域のものより技法的に進歩がみられる。また時に青磁や染付の磁器片が出土しており、大陸文化の影響も考えられる。ここからは、平安時代初期に作られた日本の銅銭、富寿神宝や貞観永宝の古銭が出土している。
G石原 遺跡の西北端にあり、石が多い。土器片・鉄片・管玉などが散布し、硬玉の勾玉を発見している。

函石浜出土品の弥生式土器が、すべて西日本各地の出土品と同じ系統のものであることから、北九州に始まる弥生文化を受け継いだものであることが理解される。
また、勾玉の材料の硬玉は日本には多く産しないので、大陸のものであるかもしれない。青磁や染付陶磁片の出土していること、王莽の貨泉や大陸の古銭が発見されていることから、大陸と直接間接に、深いつながりを持ったことがわかる。
函石浜遺跡の出土品中、特に注目すべきは、王莽の貨泉である。この貨泉は、明治36年に織田幾次郎氏が、製造場付近で採集したものであり、今は京都大学に所蔵されている
この銅銭は、西暦8年に前漢を倒して「新」を建国した王莽が、天鳳元年(14)に鋳造したものである。しかし、この「新」は、西暦25年に後漢の、光武帝に滅ぼされて、貨泉の流通は禁止され、流通していたものを集めて鋳直されたから、流通の期間はきわめて短い。

今まで、日本では壱岐・福岡・瀬戸内・大阪など五か所で、弥生中期の土器といっしょに発見されているだけである。これらの貨泉は、恐らく、「新」からその植民地の朝鮮の楽浪を経て、日本に持ち込まれたものであろうといわれている。

このほかに、函石浜遺跡出土とみられる古代中国周代の刀銭「明刀」(めいとう)がある。
刀銭は、紀元前五〜六世紀ごろの、中国周代につくられた刀の形をLた貨幣である。函石浜出土といわれている刀銭は、燕の国でつくられた青銅製で、側面に「明」という字が記されている。長さ14.1センチメートル、幅は1.1〜1.9センチメートルである。現在神谷神社に保管されている。

函石浜遺跡の発掘のときに、刀銭が二枚出土したという。この二枚は、さびなどの状態から、二枚重だって出土したことが明らかになっている。その一枚は、発掘に参加Lた人が持ち帰り、一枚は、佐治家に保存されたと言い伝えられている(毎日新聞47年10月28日より)。この刀銭が、函石浜出土という確証があれば、王莽の貨泉より更に古く貴重な研究資料になる。
以上述べたように、函石浜遺跡は、初め東部の台地に始まり、しだいに西部に広がっていったもので、弥生前期から、室町時代に至るまで、千数百年にわたって、人が住みついてきたという、例の少ない遺跡である。(久美浜町誌より)
函石浜遺跡略図 函石浜遺跡出土弥生式土器 函石浜遺跡出土石鏃

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