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神谷神社(かみたにじんじゃ)
久美浜の良さをみんなで活用しよう!


野遺産
久美浜町の文化財を熊野遺産として久美浜百珍としました!




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住所:久美浜町新町
丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)
八千矛神(やちほこのかみ)
天神玉命(あまのかみたまのみこと)
天種子命(あまのたねこのみこと)

「神谷太刀宮さん」「明神さん」特に「太刀宮さん」と親しまれております杜が、神谷神社でございます。

むかし、主祭神であります丹波道主命は、四道将軍の御一人として山陰地方平定開拓の砌、御本社の西南約二キロの所、丹後と但馬の国境である神谷の里、明神谷に、八千矛命(やちほこのかみ)、天神王命(あまのかみたまのみこと)、天君子命(あめのたねこのみこと)の三座の神々を出雲の国より迎え、当時、強大な文化を有する出雲の人々の歓心を得、前途の平安を祈願し、大和朝廷に従わせるよう社を創建してお祀したのが創始と伝えております。

丹波道主命は、山陰地方平定開拓の後、国人となって永くこの地、久美の里に留まり、幽逐の地で海を駆け、野をひらき、国土万物の生成、人心の安定、殖産興業につとめられ遠き都人にとって常世につながる幻想の隠国、熊野の郷の豪族の娘、河上麻須郎女(かわかみのますのいらつめ)をお迎になり、五子をもうけ給い・垂仁天皇五年十月に後宮として、それぞれ朝廷にお入りになました。その御一人第一子目葉酢姫(ひばすひめ)は、第十一代垂仁天皇十五年、皇后に上られたと語り伝えられております。

丹波道主命が御薨去の後、御恩徳を慕ぴ、久美谷川の清流にそうた久美浜小谷の清地に社殿を造営し、常に佩帶されておられた神剣「国見剣」(くにみのつるぎ)を神魂(かみのみたま)として明神谷の出雲の国から迎え、三座の神々を合せ祀り、お鎮まりになられて以後、近郷の衆庶の信仰次第に篤く「神谷太刀宮大明神」「厄除・方除の太刀宮」と称え仰ぎぎ祀られております。

道ぬしの神のみことのこと向けし剣の太刀の宮居かしこし古代には、畿内地方とは異なった文化が育まれ、日本海沿岸地域特に、久美浜湾を抱く砂州の基部に人々が集落を営み、高度な文化を取り入れたと考えられており大正十年(一九二一)に「函石浜遺物包含地」として国の史跡指定を受けました。中国周代末の方首刀二枚と貨泉二枚、また、当時の土器、鉄製品などが多数出土採取されていることなどから、高度な文化をもつ豪族を平定、大和朝廷に従わせ、国を統一する為に派遣されたのが丹波道主命であります。

「日本書記」に「第十代崇神天皇即位十年秋九月、皇族の中から、北陸に大彦命(おおひこのみこと)、東海に武淳川別命(たけぬなかわけのみこと)、山陽に吉津彦命(きみつひこのみこと)、山陰に丹波道主命を任命し、それぞれ将軍らは各地を平定したことを朝廷に報告し、天下は平和になった、とありますから、少なくとも千数百年以上の昔のことでありましよう。

久美浜湾のなかほどに突き出る岬を「大明神岬」、「シドガ岬」と名づけ、大小の古墳が点在しておりますが、その一基は丹波道主命の陵墓であると語り伝えております

久美浜の地名も、命の伺帯され給うた「国見剣」から起って「国見」「久美」となり「くみのみなと」「くみの見谷」「くみの浜」など久美浜の地名の起源になったと言われております。

この様に、古代丹後探求の鍵をにぎる社として興味深く近畿一円を見ましても、丹波道主命を主祭神として鎮祭する社は他になく、神谷神社が主祭神として丹波道主命をお祀り申し上げております全国唯一の社であります。

延喜式の神名帳に列する由緒深い社で、境内外に十数余の社を鎮祭し、境内の一角に巨岩、奇石がならぴたち、神秘なたたづまいを見せております。これが古代に崇敬された「磐座(いわくら)」で、社殿祭祀以前に神様をお祀りした所です。

このように古くから量徳を仰がれた神様で、神威愈々高く「厄除けの神」、普請、造作など「方除けの神」との信仰広く行きわたり、家内安全、交通安全、安産、病気平癒など、音も今も、丹後の人々をはじめ津々浦々の皆様からあつい崇敬がささげられる心の故郷、鎮守の森でございます
境内参道 本殿門 秋祭幟
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参考館(さんこうかん)/考古館
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◎考古館(旧久美浜縣庁舎御玄関棟)
考古館は、慶応四年(明治元年)五月(131年前)に設置された旧久美浜縣の県庁舎の一部分で、久美浜の明治初年の歴史を語る建造物、であります。

慶応四年正月、京都のの鳥羽、伏見で薩摩、長州連合軍と幕府軍の戦い(戊辰の役)が行われる中で、山陰、道鎮撫総督を任命(一月三目)された公家の西園寺公望(当時十八才).初め約三百余名の少ない一行は、山陰地方鎮撫の為、京都を出陣、各藩を鎮撫し、久美浜では代官所を徴収し久美浜官軍陣営のち官軍出張所となり久美浜縣設置(慶応四年五月十七目)と共に、初代の縣知事、伊王野治郎左衛門(烏取藩士)県判事、松本麟太郎(松本藩士)他四十名余が赴任、旧久美浜代官所、生野代官所支配地その他社寺領など丹後、丹波、但馬・播磨・美作の五国を管轄し、管轄地約二十三万石余。

棟礼銘文によると、旧代宮所は手狭かつ荒慶し、翌明治二年秋、管内の救窮も兼ねて新庁舎の造営工事が始まり代官所跡地を広め約七千坪の敷地に、三方に溝川を流し、丹後国与謝郡大原村(現岩滝町)大工棟梁高岡豊助義為、木工棟梁久美浜田辺屋又平らの職人により、江戸時代武家屋敷様式そのままを受継いだ木造丹瓦屋根の庁舎で、正面に総ケヤキ造りの「薬医門」と言う種類の正門(豊岡市文化財に指定)県舎、官邸、馬舎など「御役所」「御玄関」「御台所」の三棟の建物が渡り廊下で接続される総建物面積約四百坪余の雄大な構えを見せる県舎が明治三年五月五目に完成。

明治四年十一月、久美浜縣廃県、豊岡縣設置にともない新築されたばかりの庁舎一切そっ<り移築されることになりました。

明治9年八月二十一日、豊岡縣廃県、管轄地は兵庫県、京都府に分割。建物は城崎、美含郡役所として使用大正十二年、郡役所が鉄筋コンクリート造りに新築されることになり、久美浜町有志、特に当時神谷神社宮司佐治正章氏(大正十二年発刊の熊野郡誌主任)の執念とも言る尽力により、県庁舎玄関棟の一部を神谷神社(太刀宮)の隣接する私有地に再移築、太刀宮社務所兼、当時は丹後、但馬の唯一資料展示室であったが、戦後、新設された久美浜簡易裁判所庁舎として使用。

資料展示室を廃館、裁判所が新庁舎に移転と共に太刀宮の祈祷殿として使用しているが、外観、特に正面式台付近のたたづまいは旧久美浜県庁舎のおもかげをよく伝えており、それにしても雨露と歴史に耐えて、よく残り、明治初年における武家屋敷の流れを引く役所建築は全国的に少なく遺構として貴重であり、保存を図ると共に資料屋示室を再建し、後世に伝える必要があります。
昭和六十年五月に府の文化財に指定されております。
参考館玄関棟 参道(KTR久美浜駅側) KTR久美浜駅

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