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湯舟坂2号墳(ゆふねざかにごうふん)
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野遺産
久美浜町の文化財を熊野遺産として久美浜百珍としました!




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住所:久美浜町須田
 本古墳は、西から東へ延びるなだらかな丘陵の稜上に営まれた径約17.5mの円墳である。
トレンチ調査の結果、墳丘の周囲を約半周する周濠と、墳丘の裾部をめぐる列石の一部を確認することができた。さらに、過去の開墾などにより、封土の大半が削平されていたものの、墳丘は裾部付近の一部を除いてそのほとんどが盛土によって築成されていることが明らかとなった。

 このように、本古墳の墳丘は、その規模においては、総数130基余りを数える須田古墳群中にあっても、大なりとはいえ必ずしも他と隔絶されるほどの規模を誇るものではない。しかし、盛土工法によって墳丘の大半を築き周濠と列石を伴う点において、後にふれる石室・副葬品を内蔵する丹後地方屈指の後期首長墓にふさわしい外観を整えていたものと推察される。

 主体部は、古墳の近辺で産出する花崗岩の巨石を用いて構築された両柚式の横穴式石室である。その規模は、全長10.58m、玄室長5.70m、玄室幅1.96m(奥壁部)〜2.44m(袖部)羨道幅1.32m(玄門郡)をはかり、久美浜町塚ノナル古填、網野町岡1号墳、丹後町こうもりの穴古墳、大宮町新戸1号墳などと並ぶ、丹後地方でも最大クラスの石室に属することが明らかとなった。また、石室の裏込めを調査した結果、3段積みと推定される側壁の各段の側石の構築に対応する裏込め土の変化を認めることができた。この種の巨石古墳の築造法を明瞭にしめす貴重な1例となるものといえよう。
古墳上部から 古墳全体 伯耆谷
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玄圃霊三関係資料(げんぽれいさんかんけいしりょう)
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住所:久美浜町新町1268(宗雲寺)
二巻、九幅、
六冊、一九通(歴史資料・指定一)

宗教法人宗雲寺

時代
室町時代-江戸時代前期

熊野郡久美浜町に所在する宗雲寺は、臨済宗南禅寺派に属する禅宗寺院である。宗雲寺はもと常喜院といい、天寧寺開山愚中周及(1323〜1409)の法嗣である千畝周竹(〜1460、安芸仏通寺九世)が、それまで荒廃していた天台寺院を永享4年(1423)に禅宗寺院として再興したもので、室町時代には天寧寺・仏通寺と並ぶ愚中派の中核寺院として栄えた。

その後常喜院は退転していたが、細川藤孝の家老格の松井康之が松倉(久美浜)城主となって当院を庇護し、永禄二年(1559)に死去した父正之の菩提を弔うべく、当院を亡父の法名である「前城州大守清月宗雲大禅定門」に因み常喜山宗雲寺と改め、天正六年(一五七八)玄圃霊三(1535〜1608)を請じて中興開山となした。玄圃の姉は康之の父正之の妻である。

天正14年(1586)に霊三が南禅寺第266世(〜1593)となってからは、宗雲寺に留守職を定めこれを兼務した。なお、慶長二年(1597)南禅寺塔頭聴松庵に退隠後も宗雲寺住持を兼ねた。

文禄元年(1592)の豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、細川忠興に従った松井康之・与八郎父子とともに、玄圃霊三も外交僧として従軍し、東福寺の惟杏永哲、相国寺の西笑承見らとともに秀吉の参謀役として朝鮮との交渉にあたっている。

以上の由緒から、宗雲寺には玄圃霊三に関する絵画、書跡・古文書をはじめとして、細川・京極氏関係・常喜院関係の資料が伝来する。

絹本著色玄圃霊三像は、慶長九年(1601)に弟子の雲巖霊圭(南禅寺第272世)が絵し、そのもとめに応じて霊三が自賛した肖像画で、霊三示寂後の翌年の慶長一四年(1606)に雲巖が追賛して宗雲寺に納め置いたものである。

玄圃霊三の筆跡になる漢詩・諏請文及び書状類や、五山文学の泰斗のひとりと目された玄圃の人となりを窺う上で重要なものがある。

天正一四年(1586)豊臣秀吉が玄圃を南禅寺住職に任じた際の公帖があり、またこれを祝して同一門下の僧衆18名や旧識道友の僧衆19名ら京都五山僧から贈られた詩文がある。なかでも漢倭聯句並びに和漢聯句は玄圃と当時の文化人との交友を物語るものである。前者は天正一〇年(1582)に宗雲寺で行われた連歌会の際に草されたもので、一座八人で全百首のうち玄圃は漢詩二一首を載せる。後者は天正一八年(1590)に細川家家老米田宗堅を追善して行われた連歌会の際に草されたもので、細川藤孝(玄旨)・英甫永雄・中院通勝(也足軒、素然)等一座10人全百首のうち、玄圃は漢詩21首を詠じている。一座のうち中院通勝は後陽成天皇の勅勘を蒙り丹後に一九年を送り、その間細川藤孝と交わり、また玄圃について剃髪し宗雲寺の開山塔を也足と号したことに因み也足軒素然と称したとされる。

また、桃山時代に丹後国を知行した細川忠興及び京極高知等から発給された寄進状・禁制や書状などがある。慶長五年(2800)細川氏が丹後から九州中津に移封され、そのあと京極氏が襲い、翌々年に丹後一国検地を実施するが、玄圃と京極氏との間で宗雲寺領の検地をめぐる書状の往来が興味深い。

なお、康正三年(一四五七)九月ニハ[口丹陽久美常喜院規式は、千畝周竹が常喜院衆僧たるもの蓄財・借財を祭し淡泊枯淡に甘んじ行道を専らにすべきを諭したもの。

他に千畝の語録がある。これらは玄圃が宗雲寺を再興する以前の常喜院時代の根本資料として貴重である。
宗雲寺にまとまって伝来する玄圃霊三に関する本資料は、桃山時代の丹後地方における宗教・政治・文化状況を理解する上で歴史的に貴重なものである。

玄圃霊三入寺同門疏 玄圃霊三像
豊臣秀吉公帖

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