1身体 鎌倉時代
高さ151pを越えるこの地方では珍しい大型の仏像である。
全体は寄木造(よせぎづくり)で彫眼等の技法も優れている。元は漆箔像(しっぱくぞう)であったと思われるが、後世の補修により現在は分厚く彩色で覆われている。また、両手首から先、光背、台座は後から補われた部分と考えられる。
印相(いんぞう)は来迎印(らいごういん)で、定朝様の形式である。また粒の大きい螺髪(らはつ)、面観の力強い表現から見て、鎌倉時代前期の作と思われる。
(遍照寺)
遍照寺は久美浜町山内地区にあった迎接寺(こうじょうじ)が450年ほど前、現在の地に移されたもので、その後幾多の変遷をへて現在の名前になったという。
伝承によれば天平2年、行基が旅の途中、但馬と丹後の境にさしかかった時に、山中で巨木が『衆生摂取不捨』と唱えるのを聞き、その木で阿弥陀如来像を刻み、現地に寺を建てたのが始まりという。
しかし、仁治2年(1241)には寺が荒廃したので一番近かった集落である山内に再興されたいう。この迎接寺には宝寺院(ほうじゅいん)、蓮光院(れんこういん)、遍照院(へんじょういん)、中性院(ちゅうしょういん)(現在網野町内に
現存)、正覚院(しょうかくいん)等の子院があった。現在の遍照寺は遍照院の建物が残ったものと伝えられている。
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